2012年5月17日木曜日

中岡慎太郎と龍馬暗殺


まず、中岡慎太郎とはどういう人物だったのか。簡潔に述べさせてもらうと・・・。
天保九年(一八三八)四月十三日、高知県安芸郡北川郷の大庄屋、中岡家の長男として生まれた。身分は大庄屋であるが、幕末に於いて倒幕派の志士として活躍する。ちなみに龍馬は、土佐藩郷士。この郷士というのは、武士社会では下級の位の武士である。商売も許されていたので、ある程度は龍馬も裕福であった。が、商売もできるので、上級武士(上士)からは、蔑まされていた。後に二人とも、土佐藩を脱藩する。
犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の仲を取り持ち、龍馬とともに、当時、誰もが無理だと思っていた薩長同盟を結ばせた男である。そのきっかけは中岡の方が先に作ったともいえる。後、� ��馬が亀山社中を経て海援隊を組織し、中岡も陸援隊を組織統率する。
ただ、中岡は龍馬と違い、武力によって倒幕せしめる強硬派であったが、龍馬に説得され、柔軟な姿勢を示す時もあった。その矢先、慶応三年(一八六七)十一月十五日、龍馬と共に、京都の近江屋にて暗殺される。
墓は同じく、龍馬と共に京都、東山にある。
その全体像ともいえる話の流れは、漫画『お〜い!竜馬』がお薦めである。こちらは、一貫して「竜馬」という字を使っている。ある意味、「薩長同盟」が、クライマックスだったとも言えるが、後半に進む程、史実に忠実なのが見てとれる。特に暗殺の場面は、「絵の力」を、思い知らされた。

 「無駄という時間のない人」 (学研)歴史群像より
中岡の家で、行儀見習奉公した祖母から 、慎太郎の話しを聞かされて成長した古老は、次のように語っている。
「中岡先生は、ひと時も無駄という時間のない人であった。例えば、秋の刈り入れの時、夕方に所用から烏ヶ森を越えて中岡先生が帰って来ると、百姓達が稲の取り入れに追われている。先生はそれを見ながら家に帰り着くと、稲ざす(天秤棒)を持って、すっと手伝いに行くといった人であった」

 「『時勢論』に於ける中岡の先見」 (学研)歴史群像より
文久三年、九月五日、慎太郎は、土佐を脱藩し、三条実美と面会する。倒幕の為の行動を起こす為である。
薩長和解を龍馬に語り、西郷や長州藩の同志を説き、桂小五郎にも面会するなど、精力的に東奔西走していた慶応元年十一月二十六日夜、『時勢論』を書き上げる。
何の為の攘夷か� ��何の為の倒幕か、例を古今に求め、薩長の天下を予言した一篇となっている。
「今から後、国を盛んにするのは、必ず薩摩と長州である。自分が思うに、天下が近日のうちに、この二藩の命に従うようになるのは、ちょうど鏡にかけて見るようなものである」
と、早くも王政復古後の薩長藩閥政権を、断言している。
そして、慶応二年十月二十六日夜に、『ひそかに示す知己の論』を書く。
この中では、三十八年後の日露戦争や、七十五年後の日米開戦までをも予測しているかのような、驚くべき内容をしたためている。
「今時、恐るべきはロシアである。虎狼のような心を包み隠し、数年この方、大兵を養い、国費を蓄え、石炭を用意し、諸国との交易を心にもかけず、もし彼の政策を以って立たしめるならば、必ず� ��突如として侵略し、その恐れがあるのは、我が国を以って甚だしいとす」
「只、ロシアだけでなく、中国がこれに次ぐ。英国やフランスも危ない。ロシアだけでなく、アメリカも同様に恐るべき所がある」

当時、慎太郎が、ここまで世界事情を予見していた事は、驚愕に値する。
国内的には、慎太郎曰く、過去のあらゆる歴史を紐解いても、無血革命など、有り得ない。戦わずして、革命が成功した例など皆無なのだ! となる。奇しくも、龍馬が存命していた時は、大政奉還で無血革命が成功し、龍馬死後、勝海舟にして、江戸城無血開城を取り計らったかに見えたが、鳥羽・伏見の戦いしかり、戊辰戦争しかり、結局、慎太郎の言うように、血が流された。

これから、暗殺事件の謎を追うにあたり、予め断っておか� �ければならない事に、私のように「中岡暗殺」といっても、資料が結局「龍馬暗殺」しかないことを、了承願いたい。話しは「龍馬暗殺」で進まざるを得ない。
それと、第一級資料として、『坂本龍馬関係資料』というものがあり、私は手に入れてないのが、弱みでもある。
以下、事件を描いた推理本で、ネックになるものを、一つずつ拾い出し、検証してみる。そして重要な所には、後になって確認する時、分かり易いように、青字にしておく。
ただし、その証拠や証言といったものが、後々の研究により、間違いであったりする事もあるらしいが、それにしても、私の説は、それらを結ぶ一本の太い糸に成り得るものではある。

 「今井伸郎とその孫」 (新人物往来社)「龍馬暗殺の謎を解く」より
今� �伸郎(のぶお)という人物がいた。会津藩の京都見廻組与力頭であった。どの本にも必ず出てくる人物である。当初はこの今井が、龍馬を斬ったとされていたが、最近では、同じ見廻組の小太刀の名人、桂隼之助という説が濃厚とされている。その隼之助が龍馬を斬ったとされる刀も、真偽はともかく見つかっている。
では、暗殺を指図した黒幕は誰か? という事になる。皆が謎としているものである。
この本の冒頭を飾る「今井伸郎説」には、その孫の今井幸彦氏という人物が書いている。どうもこの人、よほど自分の祖父を「龍馬を斬った男」にしたいらしく、文章は一番読みやすいのであるが、証拠を顧みずに、他の説を取り上げない所が弱い。
今では、裁判の供述通り、今井は事件のあった近江屋の二階へ行かずに、 一階で土佐藩の仲間が来たら知らせるよう、見張りをしていただけと言われている。大体、今井が持っていた長刀では、天井の低すぎる近江屋の母屋に於いて、振り回せない事が分かっている。
それでは、この本の筆者達が言うところの、それぞれ重要であろうと考えられるものを、照合していこう。
この章の今井家の家伝によると、 佐々木只三郎、他つごう七人が、事件の当日(慶応三年十一月十五日)、近江屋を訪れた。案内を乞うと、龍馬の下僕、元相撲取りの藤吉が二階から降りてきた。藤吉に「松代藩某(なにがし)」という偽の名札を渡し、「才谷先生はご在宅か?」と尋ねた。才谷とは、当時、龍馬が使っていた変名である。実家が「才谷屋」というところからきている。名前は、勝海舟の子供と同じ名の� �梅太郎と名乗っていた。そして、藤吉が「少々お待ちを」と言って、二階へとって返したが(この時、犯人は龍馬達が二階にいることを確信したとするのだが、それも、実は事前に分かっていた節もある)、そう言うからには在宅間違いなしと見た今井は、その後をつけて階段を上り、上り切った所で藤吉を後ろケサがけの一刀で倒した、とある。そして刀を収め、なに喰わぬ顔で奥の八畳の襖を開くと、火鉢を囲んで、二人の男が話し込んでいた。どちらが目指す龍馬か分からず、とっさの機転で「坂本先生お久しぶりです」と、座ったまま丁寧に挨拶をした。すると右手の男が顎をなでながら「ハテ、どなたでしたかなァ・・・」と顔を向けたので、これぞ龍馬に間違いなしと、その前額を抜き打ちざま真横に払った。驚い� �左手の男(中岡慎太郎)が、脇差しをつかんで立ち上がろうとしたので、その抜く暇を与えず拝み打ちに連打した。その間、龍馬は床の間に置いた刀を取ろうとして、後ろケサがけの一刀を浴び、続いて真っ向から打ち下ろされた三の太刀を鞘ごと受け止めたが、龍馬の刀身が削れるほどの強打で、そのまま脳まで達っしてしまった。その後、何故、止めの一刀を刺さなかったのかという疑問は残るのだが、ほんの二、三分の出来事だったという。(以上、今井家の家伝より抜粋)

龍馬に止めを刺さなかったという所からも、中岡暗殺が第一の目的だったからだと考える事が出来る。中岡は連打を打たれた後、三太刀ほど、止めをさされている。龍馬は格闘中、中岡に「石川! 刀があるか!? 刀はないか?!」と、慎太郎� ��身を案じて声を掛けていた。しかも、その時でも、慎太郎に気を使い、偽名である石川誠之助という名を使って呼んでいた。結局、龍馬は止めを刺されず三太刀で、慎太郎には十一太刀も浴びせられ、止めまで刺されていた。おそらく、龍馬に三太刀浴びせた後、桂が慎太郎に襲い掛かり、二人がかりで滅多打ちにしたと思われる。慎太郎を襲ったのは高橋安次郎とも、後に語る事になる渡辺篤とは異なる、渡辺吉太郎とも言われているが、定かではない。慎太郎は、龍馬との刺客もあわせて実行者は二人、と証言している。ただ、これはあくまで、慎太郎と龍馬に直接襲い掛かった者(慎太郎が見た限り)が二人という事だろう。しかも、最初から自分の方に襲い掛かってきたとも言っているのだ。ゆえに、「坂本先生、お久しぶ� �です」と言った、今井証言は真実味に欠ける。それに「坂本先生お久しぶりです」という挨拶から、人を斬るというくだりは、清川八郎を斬った時の佐々木只三郎(唯三郎)の手口を模倣していて、いくら現場に佐々木只三郎がいたからとはいえ、清川八郎の時とは現場状況が違いすぎるから、いささか作為的で鵜呑みに出来ないものでもある。
慎太郎はすでに倒れて気を失っていたが、臀部に止めを刺された時、その痛みで我に返る。その時、様子を確認する為、後から入ってきたであろう暗殺のリーダー格、佐々木只三郎か? またはより黒幕に近しい人物か? その者の「もう、よい。もう、よい」という声を慎太郎は聞いている。暗殺を完全に遂行する為、止めを刺している実行者に対して、いささか奇妙な言い回しであ る。臀部に止めというからには、慎太郎はうつ伏せになって倒れていたと考えられる。ゆえに、新たに様子を確認しに来たリーダー格の男に気が付かなかったのだろう(後から入ってきたリーダー格の男とは、あくまで推定であるが、実行者が「もう、よい。もう、よい」とは言わないと考えられる)。そして、刺客は去り際、鼻歌まで歌っていたらしい。この余裕は、どこから来ているのであろうか。
刺客が去った後、慎太郎が龍馬の方を見て、叫ぶように声を掛けると、龍馬は胡座をかいたまま刀身をじっと見つめていて「残念だった」と一言。慎太郎に向かっては「手は利くか?」と尋ね、慎太郎は「利く」と答えた。龍馬は「俺は脳をやられとるから、もう駄目だ」と慎太郎に言い残し、医者を呼ぼうとして行燈を持� ��ながら階段の方まで行こうとしたが、再び倒れた。龍馬はそれで亡くなったらしいが、慎太郎も助けを呼ぼうと隣の家の屋根まで移動し、再び気絶。後、二日ばかり奇跡的に生き延びた。それゆえの、中岡証言と言うべきものが、谷干城(たにたてき:谷守部)を通して残されたのだった。これこそが、現場に即した非常に重要な証言である事は、言うまでもないだろう。ただ、その谷干城の言う、中岡証言には、少々、谷の記憶違いや、脚色? も、あったりするらしいが、大筋は認めてやらねばなるまい。 注:この襲撃場面の内容は諸説あり、谷干城が証言した内容とは違う箇所も多いのだが、諸説調べられたであろう今に伝えられている場面内容を、私なりに整理した形で書き記したものである。アスタリスク( )内の今井家の家伝内容とは別物である。


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 「今井信郎裁判」
今井信朗は明治三年、龍馬殺害の有力容疑者として刑事裁判をかけられた。その供述内容は、暗殺経緯で、特に今伝えられているものと差異が無いので省くが、佐々木只三郎からは「御指図である」と言われたという。当時、旧幕府では、閣老や重職者からの命令を「御指図」と呼んでいたらしく、旧幕臣からのものか、京都守護職会津藩からのものかは、自分は知らないと言っている。
その今井信朗は禁固刑になった。ここで、孫の今井幸彦氏は、この裁判の謎の一つとして、近藤勇などが死刑になっているのに対して、今井信朗の刑は軽すぎると主張している(これは、土佐藩の谷干城が龍馬暗殺を吐かせる� ��に、近藤勇を尋問するか否かで、尋問に反対した薩摩と揉めて、結局、尋問はせずに斬首となった、と言い伝わっている所からからきている。ただし、近藤勇の罪状は、新撰組の活動も含めて、あくまでも官軍に対して反攻したからであり、龍馬や慎太郎の暗殺とは関係がないとも言われている)。当時、龍馬暗殺に関連した今井が言うところの実行犯達は、すでに死んでいる。そういう場合、直接手を下したのは自分ではない、という言い逃れは(今井は台所辺りで見張りをしていただけだと自供)、昔も今も多く、検察側の常道からすれば、お前もやったのだろうと、迫るのが当然なのに、「ああそうか」と鵜呑みにしているフシがあるのも謎だという。
そして、当時の法務大臣は土佐藩の佐々木高行であったのに� �同藩で龍馬の暗殺者を血眼になって探していた谷干城には、一切知らせなかったのもおかしいし、自供書にも判決文中にも、中岡慎太郎の名前が一つも出てこない所もおかしいと主張している(この指摘自体は、実にいい所をついている)。今井信朗は、中岡を知らないにしても、尋問はその点まで及んだだろうし、少なくとも判決文中には一行ぐらいは触れてしかるべきだと書いている。この、自らの疑問に対して、今井幸彦氏は、中岡を斬った人物は、今井信朗ではなく別人物だったからではなかろうかと、結論づけている。だが、果たしてそれだけだろうか。それだけでは、龍馬暗殺に直接手を下さなかったと言う、今井の証言を鵜呑みにした理由や、土佐藩の佐々木高行が谷干城に何も知らせなかった理由も説明がつか� �い。

 「西郷隆盛と今井信郎」
禁固刑から放免された今井は、明治十年、西南戦争が始まると、西郷討伐の為に編成された新撰旅団第七大隊の副長となり、西下する。ところが、今井家の家伝によると、西郷は龍馬殺害容疑の裁判中、個人的に信郎の命乞いに奔走してくれたという。ゆえに、討伐は西下の名目であり、熊本に着いたら寝返るつもりだったというが、西下途中で、戦局の大勢は決して召還された。
本当に寝返る事など出来たのであろうか。西郷と今井は、もちろん面識もなく、なぜ西郷が今井の為に奔走したのか、その真意は不明だが、家伝ゆえ、事実かどうかは疑わしいものである。近江屋の家伝でさえ、かなり誤差があるからである。
もし、本当に西郷が今井をかばったのならば、それは西郷がす� ��に龍馬暗殺の黒幕を知っていたからであろう。だいたい、見廻組が暗殺を実行していたのは、当時の幕府では公然の秘密であったし、その黒幕にしても一部の人間(つまり教えなくともよい人物)を除いて、地位の高い人物は、皆知っていた節があるからだ。明治新政府で主導権を握っていた薩摩藩ならば、それ当然の事でもある。黒幕が黒幕だけに、西郷としても、むしろ今井が死んで、完全に相手の思う壺になったら、藩としても捨ておけないからなのだと推察する。それはつまり、薩摩藩も暗殺の黒幕として疑われていたし、真の黒幕は、薩摩藩にとっても、あまりいい関係ではなかったからである。今井はただ、「御指図」に従っただけであり、暗殺の現場にいた生き証人だからという事もあったのではなかろうか。

「近畿� ��論」
今井伸郎が、龍馬暗殺内容を、「今井伸郎氏実歴談」として、明治三十三年に記者を通して発表されてしまったものだ。
発表されたというのは、当然、今井の本意ではなかったという事だが、禁固刑を受け、自分は見張りをしていただけ、と供述した者が、記者に話すなど、かなり無用心というか、それだけ、裁判の追及が甘かったのか、何かしら取調べ中に、意図的なものがあったのではないかと、勘ぐってしまう。龍馬裁判ならびに判決については、外部には一切公開せず、極秘扱いだったにも関わらず。
この実歴談には一箇所、注目すべき今井の話が載っている。ほとんどの研究書には「暗殺実行に関わった者は鳥羽伏見の戦いで戦死している」としているのに対して、今井は「桑名藩の渡辺吉太郎と京都与力の桂� �ノ助と、いま一人の四人で出掛けた。このいま一人は、今も生きているので絶対に口外できぬ」という。『龍馬暗殺の謎を解く』に参加している研究家の中でも、この話については一切触れておらず、誰もその事に関する説すら唱えていない。当の今井幸彦氏でさえも。実行犯の一人とされている高橋安次郎も、戦死している。たとえば、そのいま一人が渡辺篤だったのでは? とか、別に知られざる人物が同伴していたのか? など、突き詰めていかないのは不思議ですらある。(今井幸彦氏は、渡辺篤こそ虚言を言っているとしている節があるので、致し方ないにしても)
それにしても今井以外の実行犯は、皆、戦死している、という史実めいたものに統一されているのは、歴史家ならともかく、研究者が追及しないのは、それだ� ��この今井伸郎実歴談の信憑性がないからかもしれないが、こういう部分は、あきらかに信憑性のあるものとして取り上げるべきではないのか。
ともかく、この記事を目にした片岡健吉が、谷干城に知らせたのだが、谷が反論したのは、それから六年も経ってからだった。今井が裁判にかけられたのは、明治三年。「近畿評論」に記事が載ったのは、明治三十三年である。それから六年後の明治三十九年に、谷が「今井売名奴」として、大演説があるのだが、ここでも、孫の今井幸彦氏は、「なぜ六年も経って谷が反論をしだしたのか? なぜ谷は、今井が龍馬殺しの裁判を受けていたのに、何一つ知らされなかったのか?」と疑問を呈している。
実は明治三年に谷干城は、藩命で土佐に戻されている。そしてな� �も知らなかったのか、その時まで未だ新撰組の仕業と思い込んでいて、見廻組の今井売名奴と主張したのか・・・、私はたぶんその頃には暗殺の黒幕まで、谷にも知らされていたからではないかと考える。


どのように私は義満を倒すん。

「薩摩藩黒幕説」
多くの研究者が取り上げ、主流ともなっている説である。
それは、蜷川新(にながわ あらた)博士による『維新正観』にて「・・・この日坂本龍馬暗殺の報を聞き、土州人中島信行は現場に駆け付け、旅館の女中に向かい、その折の様子を尋ねてみた。その女中は密かに『暗殺人は逃げ行く際に、二つ三つ私語したが、それは確かに鹿児島弁の音調があった』と答えたと言われる・・・」といった事由を発表した所から来ている。中島信行は海援隊士で、後々にも身近な者に対して、同じように語っていたという。
これは重要な証言だとも言えるが、私は薩摩藩暗殺説を否定する。当時の暗殺に於ける常套手段としては、現場の遺� �品などに、他者へ濡れ衣を被せるような事が、当たり前のように行われていたので、もし、この証言が本当ならば、私には暗殺者達が、わざと鹿児島弁を言ったように思えて仕方が無い。もしくは、暗がりの中である為、事前に合図か合言葉として、薩摩弁を選んだのかもしれない。例えば、姉小路公知暗殺事件は、現場に薩摩の田中新兵衛の刀が放置されていた。逮捕された新兵衛は犯行を否認していたが、現場に落ちていたその刀を見せられると、驚いた顔を見せ、遂に切腹をしてしまった。薩摩藩に利害が及ぶ事を避けての行動であったとされているが、新兵衛が真犯人であったなら、自分が落とした筈の刀を示されて、驚く筈はない。一説には、朝廷が島津久光に上洛と治安維持を命じており、薩摩藩の介入を嫌がる尊� �攘夷派による仕業といわれている。
いずれにしても、鹿児島弁を使ったという事は、わざと薩摩藩の仕業にしたかったという推測が頭をよぎる。実際、こういう話もある。慶応二年一月二十三日、寺田屋に宿泊していた龍馬を、百数十人の伏見奉行の捕り方が捕縛せんと、寺田屋の門を叩いた。寺田屋(襲撃)事件である。女主人のお登勢が、すぐに門を開けずに、どなたか? と尋ねると「薩摩藩の者である」と答えたので、門を開けたら伏見奉行の捕り方が雪崩れ込んできたという。この時点でも、それ以前でも、幕府側は龍馬が薩摩藩と懇意で、龍馬自身も薩摩藩士を装っている事まで知っていて、わざわざ薩摩藩士を名乗った訳である。
近江屋での暗殺事件後、谷干城が薩摩藩邸に詰め寄り、事件に関わったかどうか問い� �だしている所からも、女中の証言とは別に、龍馬と薩摩藩の関係が微妙である事は、以前から認識されていたようで、それを犯人が利用したと考える事が出来る。
近江屋の暗殺現場にも、新撰組の原田左之助のものらしい鞘が落ちていたり、新撰組のよく使っている先斗町の料亭「瓢箪(ひょうたん)」の下駄が落ちていた。このわざとらしい遺留品は、当然、新撰組のせいにする為なのだが、公務で実行した見廻組が、なぜに新撰組のせいにしようとしたのか? これは大政奉還後という事もあり、龍馬が政府要人と親しかったという事も有り得るが(公務ではなく私怨であったという説あり。寺田屋襲撃事件に於いて、龍馬は二人の捕り方を銃で撃って死なせている)、黒幕の意向でもあり、更に撹乱させる為、鹿児島弁を使った� ��ではないかと勘ぐりたくなるものだ。つまり、犯人は、新撰組や鹿児島弁を使う薩摩藩以外と考えるべきなのである。
ただし、この女中の証言も、確かなものかは定かではなく、事件直後に駆けつけた関係者の中には、「近江屋の家人は皆逃げ出していて、誰も屋内にはいなかった」という証言もあり、そうなると「暗殺人が踏み込んできた際に・・・」であれば納得がいくが、「暗殺人が逃げ出す際に・・・」という証言は、信憑性がなくなる。それに、今井信郎の証言では「家人が騒ぎ立てないように一階へ見張り役を置いた」とあるが、近江屋の家人の証言では、その見張役と直接対峙したような証言はない。近江屋の主人は二階で暴れている音がしたので、龍馬達に一大事が起ったと思い、土佐藩邸に知らせようとした時、表 門には刺客と思わしき侍が抜刀して立っていたので、裏門から知らせに行ったという。そのぐらいのものであるし、近江屋の家人が、刺客達はどういう人物であったか、見張り役が直接刀を抜いて脅した等の、具体的な家伝は出てこないのである。(最近知った家伝では、佐々木只三郎が、自ら捕縛を通告し、龍馬が殺すなり好きなようにしろ、といった文書が出て来たらしいが、それならばやすやすと殺られはしまい)。
いずれにしても、どの証言を信用するか否かで、事件の真相が変ってくるのだが、本筋として黒幕が特定された時、捨て置いてもいいような証言であるという気がする。近江屋家人からの証言は、とかく矛盾する事が多すぎ、取捨選択に苦労するともいえる。
確かに薩摩には、龍馬を消したい理由が、大政奉還 前後からかなりあった。しかし、中岡を消す理由は全く無かったのである。むしろ、中岡の死は痛手ですらあった。大久保利通も岩倉具視も、書簡にてその死を悼み、速やかに犯人を捕らえるように促していたし、武力倒幕派であった中岡を通して、陸援隊や土佐藩の板垣退助らの派兵を、当てにもしていたからである。それに、近江屋に来る前は、酢屋に潜伏していた龍馬だが、そこに幕士がかなりうろついていた為、危ないから土佐藩邸(薩摩藩邸ともいわれている)へ移るようにと、忠告していたのが薩摩藩側であった。それを聞かず、藩邸が窮屈だからと、密かに近江屋へ移ったのは龍馬自身だったので、いわずもがなである。
当時、薩摩で主に暗殺を請け負っていたのが、人斬り半次郎こと、中村半次郎(桐野利秋)であり� �当然、薩摩が龍馬暗殺を実行するとなれば中村半次郎が実行した事だろう。中村は龍馬とも親しく、顔も知っているので適任である。
だが、こういう話がある。中村半次郎は以前、土佐の後藤象二郎を、薩摩の為にならずとして、西郷に黙って暗殺しようとした。いざ斬りかかろうとしたら、薩摩の提灯を後藤が持っていたので、暗闇の中、西郷が一緒だと勘違いをし、慌てて取りやめた。西郷は後藤を大人物として、暗殺しようとした中村半次郎を叱りつけたという。確かに、西郷の為と思い、勝手に暗殺を実行しようとする傾向が、中村半次郎にはあった。しかも、西郷は龍馬暗殺時、京都には居ない。だが、現場に中岡が居合わせていたら、当然驚いて引き返してしまうと思うのだ。もしくは、その場をなんとか取り繕う筈だと� ��うのだが、暗殺は実行された。たとえ、中村半次郎ではなく、他の薩摩藩士が暗殺を謀ろうとしても、中岡がいたら決して実行はしなかったであろう。中岡も龍馬も、薩摩藩とは当然関係深く、頻繁に出入りをしていたので、大抵の薩摩藩士は、二人の事をよく知っているからだ。
繰り返すが、薩摩藩にとって、中岡を消す理由は一つも無いし、むしろ薩摩にとっては龍馬よりも重要な人物である。しかも事件後に、中岡は「最初に自分の方へ襲い掛かってきた」と言っているのだ。
それ以外でも、前述した「今井信郎裁判」の章で、近藤勇の尋問を薩摩藩が反対したという事実などは、実行犯が新撰組で、薩摩藩と新撰組が何かしら関係を持っていたとしたら、確かに怪しいと見られるが、実行犯が見廻組ならば別段関連がない� ��何より、新撰組が暗殺を実行したとすれば、隠したり否定したりはせずに、その性質からも大宣伝をして自慢するであろうが、そんな話は一つも出てこない。
西郷が今井をかばった件でも、薩摩藩が黒幕で、今井が暗殺に関わったからだとしたら、今井をかばおうとはしないと思うのだが・・・。むしろ、証拠隠滅に走るか今井を無視するかの、どちらかだと考える。或いは、最後まで今井が黒幕を知らないとして、黙秘してくれたから、西郷がかばったというなら、むしろ、ノコノコとその黒幕が顔を出してくる訳がないのである。西郷は巷で知られているよりも陰謀家であったが、薩摩藩が権力を誇示していた維新後でも、新政府としては旧幕府の有能な人間を取り立てた。榎本武揚などがいい例である。そういった事例を見ても 、西郷が今井をかばったという家伝がもし本当であるならば、別に何かしらの理由があったと考えた方が妥当であり、根拠にならないと思われる。それに、今井伸郎が裁判にかかったのは明治三年である。その裁判証言では「見張りをしていただけ」と供述している。後に、今井自身が龍馬を斬ったと記事になった時は、明治三十三年であるから、時系列を考えれば、西郷が今井を暗殺実行者として認識していない事が分かる筈である。
龍馬暗殺ばかりに目が行き、中岡の存在をおざなりにしているから、薩摩藩黒幕説などが出てしまうと考える。


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「見廻組肝煎・渡辺篤」
今井信郎と共に、暗殺に加わったと、死後、身内が新聞に発表し、龍馬暗殺事件に於いて有名になった人物である。私は今井の証言が腑に落ちないと共に、ある理由から今井の証言は当てにならないと思っていたので、この人物を取り扱った新人物往来社『龍馬暗殺の謎を解く』の渡辺篤の章に於いて、非常に興味を抱いた。
渡辺は臨終の際、遺言として暗殺内容の発表を願い、実際、新聞記事になったのは死後の大正四年である。今井の実歴談「近畿評論」が発表されたのは、明治三十三年であるから、いささか遅いし、今井実歴談を参考にしたのではないかと疑われているものでもある。
新 聞記事の内容は、渡辺自身が明治四十四年に書き記した「渡辺家由緒暦代系図履暦書」を、要約したものであるが、その原本は『履暦書原本』として、明治十三年に書かれたとされている。つまり今井の『今井信郎実歴談』よりは前に書かれてはいる。証拠は無いようだが。
暗殺現場の内容は簡潔である為、今井との比較は難しいが、相違点として、実行者の一人に世良敏郎という人物を挙げている。その点に於いても、世良が見廻組に在籍していた事を確認出来ず、渡辺の虚言と言われてきたが、近年になり世良敏郎が在籍していた事は確認された。そして、現場に鞘を忘れたのが世良敏郎であるとしている。もし、この渡辺の言い分を信じるならば、刺客がわざと新撰組のせいにする為、原田左之助が使っていたとされる鞘を置い� �来たという説も崩れそうだ。今井は渡辺吉太郎が鞘を置いてきたとしているが、いずれにしても見廻組が犯行に及んだのであれば、集団の誰かが鞘を忘れたという事になる。そして、渡辺の書き記した内容からは「坂本先生、お久しぶりです」と、今井が龍馬を斬る前に言ったとされる言動に、一言も触れていない。藤吉に名札を渡し、一緒に二階に上がり、すぐに龍馬に襲い掛かったとしている。この点は、最初に中岡を斬りつけたとする谷干城の言い分と食い違う。であれば、龍馬暗殺が主目的となり得るが、リーダー格は佐々木只三郎であり、それ以外には目的を伏せていても不思議ではないと考えられるので、まだ中岡暗殺が主目的である事は有り得る。それに、斬りつけた中の一人が中岡慎太郎であったことは、後日聞いたとい う。渡辺自身、中岡と龍馬の区別がついてなかったとも思われる。
そして、黒幕がわざと新撰組のせいにしたとする推測は、結果的には崩れていない。これは後々語る事となるが・・・。
その他の相違点は、近江屋に増次郎という密偵を放ち、龍馬の挙動を探索していたという。その増次郎は乞食の格好をさせて、近江屋の軒下などに潜り込ませていたという。それならば、龍馬がその日、土蔵から母屋に移っていた事や、在宅の有無も、その他の人の出入りも確認できたであろう。
そして渡辺は暗殺後の十一月十九日頃に、龍馬を討った褒美として、15人扶持を月々貰う事になったと書いている。1人扶持は、日に米5合。15人扶持では、一日7升5合となる。この辺は具体的な話である。
実は当初、私がこの 暗殺事件関係の本を読み始めた時、実行犯は、ほぼ見廻組という事で、定説にもなっていた。では、黒幕とでもいうべき指図した人間は当然、会津藩主の松平容保(かたもり)か所司代(容保の実弟である桑名藩主、松平定敬:さだあき)であろうと思ったが、幕府の大目付などが命令を下すとも言われている。いずれにしても、黒幕は幕府側という事で決着をつけていいのではないかと思った。実際、大目付の永井尚志(玄蕃)が龍馬と会って親しくなる前に、暗殺を指示したという説もある。龍馬がどういう人物か知った後、捕殺等をしないよう取り計らったが、末端まで行き届かずに暗殺を実行されてしまったという。出自は不明だが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の最終巻あとがきにも、徳川慶喜が龍馬の事を聞き及んで、永井に� ��土州(土佐)の坂本竜馬には手をつけぬよう、見廻組、新撰組の管掌者(管轄者と同意語)によく注意をしておくように」と伝え、永井が出仕(どこを訪れたかは書いてない)した所、机上に龍馬を暗殺した旨の紙片が、すでに置かれていたそうである。
では、何故に皆が幕府と決め付けないで、諸説入り乱れるのか? 黒幕が幕府の他にいるとするのか?
それはまず、会津藩から直接暗殺指示があったとは考えにくいという事と、事件当日、龍馬が土蔵(確かに土蔵の方が逃げ道を作っており安全だった)から母屋に移った事は、見廻組だけでは知り得なかったとしている所らしい。黒幕の指示により、誰かが龍馬の居場所を知らせた筈としているようだが、前記しているように、増次郎という密偵を放ち、身近な所で動向を探� ��ていたのだから、居場所は筒抜けであった訳だ。それに、わざわざ会津藩系列から直接の指示が考えられないとはいっても、寺田屋(襲撃)事件に於いて、すでに伏見奉行の捕り方が龍馬を捕縛ないし、捕殺しようとしていた訳である。そしてその結果を、京都所司代に報告もしているし、龍馬を逃した後、すぐに薩摩藩に匿われている事を察知し、再三に渡り、薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求している。それだけ幕府側に於いての諜報活動は盛んであり、当時の様々な事件を調べても、幕府側の情報網は凄まじかったといえる。
事件は、大政奉還後であるが故、見廻組には暗殺する理由が無かったと見えるが、慶応三年十一月十五日の時点で、幕府は現状維持のままであり、京都守護職ならびに京都所司代廃止は同年十二月九日で あるから、ある意味絶妙なタイミングといえる。それに、龍馬は同心殺しであるから、見廻組としても多分に私怨があった故としたら納得出来るではないか(見廻組は、寺田屋事件の際、伏見奉行所から応援要請を受けて参加している)。つまりは、幕府黒幕でも、もしくは黒幕のいない見廻組私怨でも、いいように思われるのである。
最近の諸説を見渡しても、渡辺篤の話の評価は上がっている。とかく、この暗殺事件に関する史料や証言、新たなる検証に於いて、今まで定説とされてきたものが、間違っていたという事が多すぎる。最近購入した菊池明氏の『龍馬暗殺 最後の謎』を読むと、ほとんどの定説や証言には、まったく信憑性がないものばかりとされている。これでは、何を語ろうとしても、元となる資料や情報が間違� �ているのならば、事実に近づきようがない。
では、幕府黒幕か見廻組の私怨で、この話は終るのかというと、ある一点の人物、ないしはある藩を黒幕とすると、いかなる偽情報でも、別の黒幕と成り得る存在がいるのである。どうしても、黒幕が必要ならば、というべきか、もしも幕府側に黒幕がいないのであれば、もしも渡辺篤が虚言を言っていたならば、否、渡辺篤が真実を述べていたとしても、ほぼ、全てが結びつくといってもいい程の人物がいるのである。これは当時の政治状況や人間関係を主眼とすれば、あぶりだされるものである。次章では、いよいよその人物を思い付いた経緯について語る。

「西尾秋風氏の薩摩藩黒幕説」
新人物往来社の『龍馬暗殺の謎を解く』に於いて、「刺客? 中村半次郎」の章を書い� ��西尾秋風氏は、いわずと知れた薩摩藩黒幕説の人である。海援隊士・佐々木多門の書簡から、薩摩藩説を確信したという。私見だが、この書簡に於いて、薩摩が関わっていたという裏付けは取れないと思われる。今現在の情報を用いて読んでみると、確かに薩摩藩が怪しいと思うが、時系列からいって、当時の海援隊士らが犯人としていたのは新撰組である。書簡には、龍馬の殺害人の姓名が分かり、これに付いての薩摩の処置等が愉快であるという内容なのだが、その姓名とは先に書いた原田左之助という事になるのではないか。それについての薩摩の処置が愉快というのは、当時、薩摩藩が伊東甲子太郎の高台寺党を匿っていたからとも言われている。これは、話が逸れるので、他のネットで諸説語られているものを参考にしてもら� �たい。
後に語る事となるが、西尾氏は先に薩摩藩説を唱えた為、御自身が提示する新史料を生かす事が出来なかったように思う。この方も、恐らく黒幕を別に考えていたように感じる。それは、西尾氏が『幕末維新暗殺秘史(新人物往来社)』の新史料提示に於いて、御自身が迷われているように読み取れたからだ。それはともかく、後に語らせてもらう。
主題は、この章の中で、福岡孝弟(藤次)の子孫が、TV番組にて龍馬暗殺を語ったという内容である。私が、中岡と龍馬暗殺の黒幕を、最初に閃いたきっかけが、この内容なのである。
要約させてもらうと、「曽祖父は福岡孝弟と申しまして、(龍馬の)死の真相を、ある筋から知っていたんだそうですが、誰が聞いても、いや、あれは言っちゃいかん事になっとるんだ 、と言いました。佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ、と」
つまり、福岡孝弟は事件後、どのくらいのタイミングか、定かではないが、真相を知っていたのである。
予め言っておこうと思うが、まず、「佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ」という話は、見廻組説の否定であるが、暗殺に関わる証言や史料を、アテにはならないとしても、有力なのはやはり見廻組である。これは、後になり考えたのだが、佐々木は直接関わってないが、実行した者達は、見廻組の関係者という事なのではないかと考えた。ややっこしいが、これにも理由はあり、それも後に語る事として、私が最も引っかかったのは、「言っちゃいかん事になっとるんだ」という言葉である。
言っちゃいかん事になっている・・・・・・、言っ� ��はいけない事になっている・・・・・・、福岡孝弟は、一体誰に対して気を使い、言ってはならない事としているのだろうか?

「自説:中岡慎太郎と龍馬暗殺の黒幕」
これは、ある意味、人間の上下関係と藩体制にも関わってくる。幕末以前でもそうであったし、維新後もまたそうであった。
藩というものは、維新前に於いて、いや薩長同盟以前を見れば分かるように、藩同士は実に仲が悪かった。各々独立していたといってもいい。今現在のように、日本として一つにまとまったものではなく、関所があるくらいで、アメリカの州よりも、簡単に行き来は出来なかった。徳川の下とはいえ、その藩主に対しては絶対で、脱藩でもしようものなら、マフィアの組織を抜けるぐらいに危険であり、重罪であった。武士が携えてい る刀も、藩のものであり、管理も厳しく行われていた。実際、龍馬は脱藩の際、帯刀して行った訳だが、残された家族は藩に対し、紛失したとしてシラを切っていた。しかし、紛失だとしても重罪であるから、いよいよ言い訳が出来なくなると、その責任を姉のお栄が背負い、武士の娘として自害したぐらいなのである。龍馬はそういった事も背負って維新を奔走していたのである。
土佐藩にしても、薩摩と長州に対しては、仲が悪かった。薩摩と長州にしても、薩長同盟が結ばれたとはいえ、実際、藩の人間同士は、仲が良くなったとはいえず、維新後の薩摩主導政府を見れば分かるように、長州にしても、土佐にしても、薩摩に虐げられた。特に土佐藩は、薩長よりも下に扱われた。土佐藩は、徳川家に対して、薩長よりも非常に� �しい間柄であったからともいえるし、薩長より、土佐は血と汗を流さなかったという理由からでもある。
そういう土佐藩の側役(藩主や藩公の側近で、土佐藩家老よりも上。後藤象二郎は、家老よりも下の参政。ただし、時系列によっては、大監察という記述も有り)である福岡孝弟が、誰に対して気を使わねばならないのか?
西郷だろうか? 確かに薩摩と仲が悪いとはいえ、新政府の要人。軽く言える訳は無い。大久保利通にしても然り、岩倉具視にしても然り、長州の木戸孝允にしても然りだが、福岡孝弟の言葉のニュアンスとして、土佐藩内での取り決めという雰囲気があり、薩長の人間より、もっと近しい人物に思えたのだ。

一体誰かというと、咄嗟に私は、土佐藩のご隠居、藩公とはいえ実質的な支配者であり元� ��主の山内容堂/豊信(やまのうち ようどう/とよしげ)を思い浮かべた。

欄外:次回からは、その理由と裏付けを語る事となるのですが、すでに出揃っている研究書などを、山内容堂が黒幕、そして、土佐藩の上士などが、容堂の命令により手引きしたとして再読すると、あちこちに納得しうる証言や史料が読み取れると思います。例えば、研究者が「よくも、土佐藩邸のこんなすぐ近くで暗殺が行えたものだ」などというコメントも、私には「近くだからこそ行う事が出来たのだ」と、つぶやけるのです。私の説は出ました。以降はあくまでも、この説に則った裏付けを書き込む事となりますが、その前に、青字にした部分の疑問や事象等を読んでみて下さい。納得できる事が多々あると思われます。
実際、突然登場 する人物や歴史的な流れ等、それぞれ詳しく説明をしてこなかった事は、ご了承下さい。それをすると膨大な労力となり、すでに一趣旨を超えてしまいますので・・・。その代わりと言ってはなんですが、人物名には別名や読み仮名を、なるべく記載して置きました。書物によっては、別名のみ記している場合があったり、読み方も二通りあったりと、同一人物なのかどうか分かりづらくなっている事があるので。
それぞれの人物や歴史的流れは、ネットや書籍で調べて戴ければ、より理解が深まる事と思われます。また、それにより私の説とは違う説(薩摩藩黒幕説とは別に)を発見、または唱えて戴ければ、発展性があると思われます。例えば「いろは丸事件」の関係者説等は、興味深いです。


「土佐の名物お殿様:山内容堂」
明治維新後、完全に隠居した容堂は、連日両国などで豪遊し、界隈では名物お殿様として有名だったという。
幕末に於いて、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された土佐藩の元藩主は、先祖の一豊が徳川方についた為、その恩恵も有り、代々徳川家には従順であった。そして、自らが藩主になった経緯も、徳川家の力があった。であるから、岩倉具視に対して「慶喜を討つとは何事か!」と、怒鳴り散らして会議に乱入した事もあり、かといえば朝廷にも顔が利いていた為、西郷をして「単純な佐幕派の方が、遥かに始末がいい」と言わしめた。
容堂は、非常に冷酷な人間であるという印象が強い。殿様だから仕方ないのかもしれないが、それ� ��しても切腹をさせる事が多かった。そして当時の土佐藩は、上士が郷士(下士)などに対して、平然と「斬り捨て御免」がまかり通っていた。薩摩や長州でさえも、そんな事はなく、むしろそういう土佐の郷士に同情すらしていた。龍馬が勝に初めて会った時も、土佐出身と聞き、同情的な言葉をかけられて、龍馬の心が動いたとされる場面も、多々描かれる場合がある。
勤皇党弾圧の時も、下級上士の(白札という身分で、郷士よりは上)武市半平太(たけち はんぺいた:瑞山・ずいざん)に対して、切腹を命じた。維新後、土佐藩が薩長に虐げられた状況を嘆いて、武市を切腹させた事に、後悔をしていたと言われるが、私には当然、中岡や龍馬を失った事への後悔に聞こえてしまう。無論、容堂黒幕には証拠は無いが・・・。だが、これこそ、容堂の性格を表していて、中岡や龍馬といった身分の低い脱藩者には目もくれず、武市という、まだ上士身分の者であれば、記憶しているといった趣を感じてしまう。
中岡と容堂の関係だが、中岡が「五十人組」を結成した時に、容堂と面会している。普通、上士などでしか、お殿様には会えないのだが、この時は容堂を警護するという名目で江戸入りをし、容堂の命令で信州松代の佐久間象山を招聘する為に奔走した。中岡の西洋に於� ��る類稀な知識に、容堂が目を付けたからだと言われている。その時に中岡を、徒目付(かちめつけ:旅中雇)という位に昇格させたのだが、土佐に帰ると勤皇党の弾圧を強化し、その中岡にも捕縛命令が下る。その時に中岡は脱藩をして長州に身を寄せ、石川清之助に変名し、「禁門の変」では長州兵と共に戦った。
それにしても、自ら目を付けて置いて、一転、捕縛命令を下すとは、ここでも容堂の性格を垣間見る事が出来る。
龍馬と容堂に関しては、江戸にて御前試合とでも言うべき剣術大会で、容堂と会っていたとされるが、これは事実ではないらしい。ただ、龍馬が脱藩の身ながら、大政奉還前に、海援隊業務として土佐藩へライフル銃を運んだ折、土佐は大騒ぎとなり、容堂もそれを耳にして「騒がしき奴」と言ったら� ��いが、これも事実かどうかははっきりとしていない。
いずれにしても、中岡や龍馬の二人の事は、はっきりと記憶してはいないであろう。何故ならば身分が低く、しかも脱藩をした者であるからだ。お殿様である容堂が、そんな二人を、まともに覚えている訳はない。覚えていたとしても、脱藩者という扱いでしかないだろう。
後藤や福岡の配慮で、脱藩の罪を免除された二人であったが、その後に於いても、藩と関わりを持たず、実際、福岡達が名目的に行った感があり、土佐藩内でも未だ脱藩者という意識が強かったようである。
ただ、仮にも脱藩を許された事により、二人に隙が出来たのかもしれない。一応の土佐藩士に対して、まさか幕府の新撰組でも、見廻組に於いても、自分達を捕縛しに来るとは考えなかったの� �もしれない。大政奉還後という事もあるが、幕府大目付の永井と親しくなったという事もあったのだろう。よく、龍馬ほどの剣豪が、たやすく討ち取られる事など有り得るだろうか、と唱えている人もいるが、それならばもっと当時の政治情勢や状況を、時系列に沿って調べるべきである。

「土佐藩黒幕説起点」
福岡孝弟の「言ってはいけない事になっている」について、前記では少々遠慮気味に書いたが、実は、土佐藩の福岡が、別段、薩摩藩や他藩に遠慮などするとは思っていなく(徳川幕府は別として)、私は確信的に容堂だと思い浮かんだのだが、それには当然、理由がある。

それは、大政奉還を取り巻く状況と容堂、その時の中岡の立ち位置というものに、やはり関係してくる。
まず、新撰組が、陸援隊に密偵 を忍ばせていたという事実がある。陸援隊は、土佐藩としての中岡が隊長であり、倒幕軍として軍事訓練を、大政奉還前も後も続けていた。これは、藩論として大政奉還を建白していた土佐藩としては、非常にまずいのではないか。実際、土佐藩白川邸の敷地を、福岡か後藤などが、勝手に陸援隊に貸していたという話もあり、陸援隊の隊員が、酒に酔って町中で暴れたりしているという苦情が、土佐藩邸に多く寄せられたとも言われている。ようは、後藤や福岡の周辺以外(土佐藩の上士など)は、陸援隊に対して、良い印象など持っていなかったであろう。土佐藩にすれば、当然である。訳の分からない、藩として認めていない徒党の苦情を受けているのだから。

そして、密偵により得た陸援隊の内部情報を、近藤勇が文書にして 会津候に上表したという証拠が残されている。それを徳川側が、会津藩から知っての、「天皇から、徳川討つべしの密勅が降りる日の前日の大政奉還」であった訳である。幕府には、すでに密勅が降りる日も筒抜けだった。
その会津候松平容保は、病弱ではあったが、松平家家訓の「徳川には最後まで尽くせ」を守り、「他の外様が戦わなくとも、我が会津藩だけは最後まで戦う」といった強行姿勢であったと聞く。当然、公武合体の大政奉還にも反対していた。

ここからは、あくまで推理ではあるが、決して有り得ない話ではない。
もし、その大政奉還を建白した容堂に、松平容保が「大政奉還を推し進めた御自分の足元、自藩では、徳川を討とうと、陸援隊という倒幕軍を、隠しているではないか」と、苦情を言ったとし� �ら・・・、容堂はきっとカンカンに怒った事であろう。しかも慶喜には、大政奉還建白時に「さすがは、容堂!」などと褒められたりもしていた。
陸援隊は、後藤と福岡が、藩の主要には知らせず勝手に作ったものであるから、容堂が知らなかった可能性は高い。プライドの高い容堂候の事、面目丸潰れと成ったであろう。そして、すぐにでも、家臣に確認した可能性が高い。それも、大政奉還前の可能性もある。もしかしたら、後藤や福岡に直接、事の真意を迫ったかもしれない。が、後藤や福岡は、当然惚けた筈である。あれは倒幕の為ではないと誤魔化したかもしれない。
となると、容堂が、他の土佐藩上士に対して、龍馬や中岡をどうこうしようとするまでもなく、陸援隊と並び、藩の倒幕勢力の存在を押さえ込もうとし� �可能性が高くなるのである。お殿様の命令であるし、藩論でもある。
そうなった場合、命令を受けた土佐藩上士は、後藤や福岡を差し置いて、陸援隊を解散させる事は難しいと考えたのではなかろうか。いや、陸援隊は、中岡の死後も、谷干城と副隊長の田中光顕によって継続した。戊辰戦争でも活躍はした。容堂も、慶応四年(1868年)一月三日、 旧幕府側の発砲で戊辰戦争が勃発すると、自分が土佐藩兵約百名を上京させたにもかかわらず、土佐藩兵はこれに加わるなと厳命した。しかし、土佐軍指揮官・板垣退助はこれを無視し、自発的に新政府軍に従軍した。諦めた容堂は、江戸攻めへ出発する板垣率いる土佐藩兵に、寒いので自愛するようにと言葉を掛けた。だが、その時はすでに時流が変っていたのである。暗殺時のタイミングは、王政復古の前である。

命令を受けた土佐藩上士は、隊の頭を抑えればとなり、標的は中岡慎太郎となった。だが、土佐の人間の誰が出来るのか? 谷の言うように、当時の土佐の人間で、手練れなどいないとなると、他に頼らざるを得ない。
穿った見方を更にすれば、会津から苦情を受けた時、流れからして、容堂が「会津藩の好きに� ��てよろしい。所詮、脱藩浪人なんぞ」と冷たくあしらった事も考えられる。会津としても寺田屋事件で伏見の同心二人を殺されているから、「では、そうさせてもらう」となり、容堂の命令で、土佐藩上士の誰かに「会津に協力するように」となったとしたら・・・。
ではなぜ、陸援隊の事を上表した新撰組が暗殺を実行しなかったのか? 新撰組にしても、実のところ要人暗殺は少ない。新撰組は、暗殺部隊というイメージが強いが、それは新撰組内部の粛清が多い。あくまでも、捕縛を目的としている隊である。それに、新撰組では、極秘の暗殺は無理であろう。見廻組と違い、浪人集団であるから、手柄を宣伝してこその組織であるからだ。
中岡と龍馬の暗殺後も、近藤が佐々木に「昨夜はお手柄であった」と、冷静に言っ� ��いる所から察すると、当初から、暗殺部隊として、新撰組ではなく、見廻組が選ばれたのだろう。その見廻組にしても、京都守護(或いは要人警護)が本来の役割であり、研究家が「暗殺実行部隊のメンバーは、正式な見廻組ではなく、傭兵部隊の様相が濃い」とするなら、しごくもっともである。

では、中岡が標的であるのに、何故龍馬も暗殺されたのか? 会津が実行するなら、当然龍馬を標的にしたい筈である。これは取引きではなかろうか。土佐の標的の中岡を引き受ける代わりに、会津としては坂本を、という事である。もしくは、新撰組に居た、阿部十郎の談話に於いて語られているように、龍馬も陸援隊の隊長であるという間違った認識があったからかもしれない。事件を調査した尾張藩の『尾張藩雑記 慶応三年ノ� ��』に於いても、白川の陸援隊は、龍馬の徒党の者としている。どうやら、外部から見た場合、龍馬も陸援隊の隊長であるという認識があったようだ。実は、土佐藩にしても、そういう嫌いがあったかもしれない。前述したように、土佐藩の白川邸は、後藤や福岡などが藩には知らせず、勝手に陸援隊に貸していたとするなら、陸援隊自体が土佐藩にとって、不明な点が多かったのではないかと推測出来る。であれば、中岡は当然だが、坂本も隊長らしいから、同時に殺ってしまえ、ともなったのではないか。隊長のいない隊なら、コントロールしやすいという事である。
そして、幕府側密偵の増次郎には龍馬を、中岡の動向は土佐藩の誰かが請負い、近江屋に出入りしている誰かに、中岡が来たら知らせろと言えば簡単であるし、母屋 の詳細な間取りも知る事が出来る。近江屋は土佐藩邸のすぐ隣でもある。

更に、何故二人同時なのか? それは、龍馬と中岡で別々に実行となっても、二班を作り同時刻に襲わなければならないからである。何故なら、どちらかでも、先に殺ったとしたら、残ったほうは更に警戒を強めて、討ち取りづらくなるからだと考える。別々に暗殺するより、むしろ手間が省ける訳である。それに、中岡は陸援隊の白川邸にいて、隊士が多数いるので、手を出しづらい。
もしくは、土佐藩側が、中岡の居場所を見失っていた可能性もある。
符合する事は、暗殺年の十月、伊東甲子太郎が中岡に、新撰組に気をつけるよう忠告した時、最初は「身を惜しむ事はない」と告げたが、後日、忠告を受け入れ、中岡は寓居を変えている。土佐藩� �しても、急に居所が掴めなくなり、焦ったのではなかろうか。さすれば、龍馬のいる近江屋を見張っていれば、中岡は来るだろうし、そのタイミングを計って、見廻組に知らせる事が出来る。

以上はあくまで推理であるが、現実的に中岡は、後藤や福岡からも、燻しがられていた証拠がある。
大政奉還前、土佐の兵を上京させなかった後藤に対して、中岡は龍馬に「後藤を斬る」とまで言い放っていた。龍馬はなんとか中岡をなだめたが、福岡に対しては福岡邸に乗り込み、暗殺未遂すら起こしていたのである。
であるからか、事件当日、龍馬は、風邪を引いているにも関わらず、午後三時と五時に渡り、わざわざ二回も福岡邸を訪れている。本の多くは、目的を書いてないが、後の福岡談話には、その理由が述べられていて� ��「あとで家人に聞くと、今まで中岡がどうしても聞かない。中岡は武力倒幕論であったから。ところが、どうやら中岡もそろそろ折れてきた。だから私に安心するようにと言いたかったらしい」という事であった。
つまり、それ程までに、土佐藩と中岡慎太郎の仲は、切羽詰っていたという事である。

事件後、早い時期から段々と、この暗殺事件に対する土佐関係者の消極的な態度を見て取れる。
「我が土佐藩が関わっている」と、それとなく聞き及んだなら、至極当然のような気がする。谷にしても、「紀州人が新選組を扇動して、新選組の者が斬りに来た。鞘は全く原田左之助の鞘である、こういうことになっている」という、土佐藩の決まり事にでもなっているかのような言い回し。土佐藩重役、寺村左膳の「脱藩者の 事であるから、藩としては、この事件に表向き不関係の事」とした態度。維新後に於ける後藤の沈黙。菊屋峯吉や近江屋主人の、不確かな証言。これは、菊屋にしても、近江屋にしても、土佐藩御用達である。口止めや何かしらの圧力があったのかもしれない。お得意様の意向に、逆らう事はしないであろう。
薩摩にしても、長州にしても、岩倉卿にしても、この暗殺事件に対して、必死の犯人捜しなどしたような痕跡もない。これも、暗殺された人間の自藩である土佐が関係しているとなれば、興ざめもしよう。


「土佐藩黒幕説について」
土佐藩説が書かれる場合は、後藤象二郎を黒幕として挙げて置いて、作者本人が「それはないであろう」と、結論づけて終るパターンが大勢を占めている。大政奉還案を独り占めにしたいから、という事がそもそもの発端の説である。当然、龍馬関係の本を読み進めれば、龍馬と後藤の仲や、大政奉還案が龍馬から発せられた事を知る人間は多数であり、龍馬を殺したとて、独り占めは出来ないのが分かる。
中岡慎太郎犯人説にしても、後藤象二郎説にしても、浅学から来るものであるが、それを推し進めて、何故に容堂まで行かないのかが、いつも不思議であった。
ただし、これは中岡慎太郎暗殺が主目的となる場合、あながち馬鹿に出来ない説と成り� ��るのだが・・・。

つまり、後藤にしても福岡にしても、中岡を消したい理由は多々あるからである。
前述したように、中岡は「後藤を斬る」とまで言い放ち、福岡に対しては暗殺未遂まで起こしている。
大政奉還前後というよりも、元々この二人は公武合体論であり、武力倒幕派の中岡とは相容れない訳である。
ただ、後藤と福岡の黒幕説となると、所々、矛盾点が多くはなる。
何故、龍馬まで暗殺されたのか? 中岡を狙っていたのに、何故、龍馬の居る近江屋で、わざわざ事件は起こったのか? 中岡を暗殺したら、流石に龍馬との仲が険悪になる筈である。そして、中岡を消したとして、身の安全が保障されるかといっても、中岡以外の、例えば陸援隊や倒幕の志士達からの危険は避けられず、武力倒幕を阻止� �来るかというと、すでに、薩摩も長州も動いているから、得策とはならない筈である。

もしも、中岡暗殺を見廻組に依頼したとして、見廻組が私怨等から、独断で龍馬を巻き込んだとしたら・・・、という考えも出来るが、確かにそれならば、当初は中岡が主目的であったとして、後藤も福岡も後味が悪くなる。新撰組のせいにし、龍馬暗殺であったと、そして、中岡暗殺が主目的であるから、その存在を消し去ろうとするのも解る話である。
更に深読みすると、暗殺の当日、福岡も寺村左膳も、家を空けていたという事が、少々臭くなってくる。

今井信郎の「兵部省・刑部省口書」に、ある符号点が記録されている。
「同日昼八ツ時(午後二時)頃、一同は龍馬の旅宿に向かったが、桂隼之助が佐々木唯三郎から申しつ けられ、一足先に偽言をもって在否を探ったところ留守中とのことで、一同は東山周辺で時間を潰し、同夜五ツ時(午後八時)頃再び訪れた」
桂隼之助が、先に近江屋周辺を探った訳である。これには裏付けもある。
当日、午後三時頃と五時頃、龍馬が福岡邸を訪ねたのだが、その時、福岡の家人が龍馬に「先ほど、見知らぬ侍が、坂本さん(或いは才谷先生)は居るかと訪ねてきた」(←この証言が載っている本により、言い方はまちまちであるので、ニュアンスとして読んでもらいたい)と、龍馬に報告しているのである。
当初は、今井の証言通りだなと流していたのだが、これは考えると妙な話である。
いかに、会津藩(桑名藩または幕府)配下の見廻組といえど、土佐藩の重役の家に、これから暗殺しようとする土� �の人間の在否を訪ねるものなのだろうかと。福岡の寓居だったからか? 脱藩浪人だから関係ないと思ったのだろうか。
もしかしたら、福岡はやはり関係していて、それを知っている佐々木が桂に探らせた、否、情報を聞きに行かせた? とも深読み出来る。
だが、桂も事情を知らされておらず、「虚言をもって在否を探った」(あくまでも今井の証言ではある)としているから、黒幕に虚言をしてまで会いに行く筈はないだろう。たまたま近くの福岡邸を訪ねただけに過ぎないかもしれない。
だが、この事象を深く掘り下げ、何かしら自説に絡めた研究家が現れれば、それに越した事はないが。

福岡らが、当日家に居なかったのは、確かに臭い。これは、事前に知っていた可能性を示唆する事も出来る。つまり、福岡は� �自分が指示したとしても、お殿様の命令であったとしても、当日は知らぬ存ぜぬを貫こうとして、家を空けたとも受け取れるのである。暗殺決行当日に、自分は関わりたくないといった心情が汲み取れるものだ。

いずれにしても、容堂を筆頭とした、土佐藩上士の誰か? とした方が、矛盾点は少なくなる。そう、あくまでも少なくなるだけではあるが。
当初、その容堂と会津藩の関係性も、よく分からなかったので、私としては「黒幕は判ったのだが、実行犯が判らない」と、逆の趣になってしまった。だが、その後は、様々な書物や情報を知るに付け、会津藩主の松平容保と容堂の接点などは、参預会議の成立などから、色々接点はあった事が分かり、後は発端を探すだけという事になった。
それに、直接、容堂と会� ��藩主の松平容保が会話をしなくとも、会津から、討幕軍である陸援隊の存在を聞き及んだ幕府側が、容堂を責め立てても、有り得る話となる。

幕末に於いての黒幕と実行犯は、意外と明かされているものが多く、中岡と龍馬暗殺のように、黒幕が不明なのは珍しいという研究家もいる。例えば先に書いた清川八郎の暗殺を指示したのは、諸説あれど老中の板倉 勝静(いたくら かつきよ)と言われている。
見廻組に命令を下すのは、京都所司代か、その上の京都守護職会津藩となる訳だが、その守護職に命令を下すのは、幕府の大目付か目付になるとも云われている。であるから、勝海舟(麟太郎)の日記に於いて、海舟が幕末当時の大目付である松平勘太郎から、今井裁判の事を聞いたが、松平勘太郎は「自分は知らない」と、不思議がったというエピソードも、勝の日記に付け加えられたのだろう。
ただ、見廻組は大目付の直接の指揮下に置かれていたという話もある。そうであれば、前述したように、幕府の老中か大目付が、容堂に苦言を呈したとして、容堂が配下の上士へ、大目付等に協力するよう命じればいい訳だ。協力ルートが変わるだけの話である。

大目付の松平勘太郎が、京都守護職� �間接的にでも見廻組の動きを知らなかったとは(幕府内の噂も含めて)、実に不可解であるが、それだけこの事件は裏が根深いのだろうか。それとも、単に京都所司代の私怨(私怨といっても公務であるといえるが、事件内容は暗殺そのものである)に基づくものなのか? その所司代である桑名藩主、松平定敬にも関係がある手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん:なおえもん)の口伝がある。佐々木只三郎の実兄である。
次回は、手代木について書こうと思う。

(つづく)

***欄外:メモ書き***

 後々本編で話すかもしれないが、話さないかもしれないので。または、すでに本編で話した事のまとめ。
 このメモ書きは、追々更新されますが、その更新日はお知らせ致しませんのであしからず。

*� ��殺前、菊屋の峯吉が、中岡の使いで薩摩藩邸に行ったとする話は、土佐藩の旅館「薩摩屋」であるかもしれず、研究本によってまちまちであり、確定出来ないが、薩摩藩邸ではない可能性があった事。追記:恐らく大阪に有ったかもしれない「薩摩屋」の事かもしれず、そうなるとお使いどころではないので、やはり、薩摩藩邸か。
今井や渡辺の証言にある、書生または踏み入った際に居た「子供」が、峯吉ではないかという説もある。

*事件中、中岡が聞いた「こなくそ!」は、中岡側の資料本によると、中岡自身が「刺客が言ったのか、果たして龍馬が言ったのかは、分からない」としている事。
これは、盲点だった。伊予地方(愛媛)の方言と、よく研究書にも書かれているが、いわば四国弁でもあるのだ。実際、現場 に駆けつけた関係者からの証言では、中岡が「こなくそ!」について、「まさか、土佐の者ではあるまいな」と言っていた話があり、このことからも「こなくそ!」は、四国または当然、土佐の方言でもあるらしいし、龍馬が使った可能性もある訳だ。

*後藤が龍馬を土佐藩邸に入れなかったとか、薩摩藩邸に入るのを拒否した旨の話は、本編ですでに書いたが、補足として話せば、龍馬自身の手紙を読めば明らかであり、事実史料として龍馬の手紙を読んだ方が、変な研究書に惑わされなくなるという事。
龍馬がどちらにも気を使って、龍馬自身が藩邸に入る事をしなかった。
暗殺後、後藤が龍馬を、土佐藩邸に入れなかったから悪いと、後藤が西郷に責められた逸話があるが、ニュアンスとしては、龍馬の言う事がもっと� �だと思い、龍馬を強引には土佐藩邸に入れなかっただけだと考えられる。

*近江屋母屋の天井傷は、私が読んだ書物では刀傷となっているが、傷の大きさから鞘の先が触れたものだという事。ただし、実際に上段で振り上げたような刀傷もあるらしい事。

近江屋の母屋二階の暗さについては、確かに勢いよく踏み込めるものではない。中六畳は奥八畳部屋より高くなっており、奥八畳に行くには、段差(敷居)に躓く可能性が高い。
実際、刺客は躓いたかもしれない。どの書物も大抵は、藤吉との格闘を、龍馬が峯吉と戯れていると解釈し、「ほたえな!(騒ぐな)」と叫んだ(中岡が叫んだかもしれない)ように書いてある。誰も指摘していないが、私は刺客が躓いて音が出た可能性もあると考えている。

暗殺時、私� ��別段、勢いよく踏み込まなければならないとは思っていない。かといって、今井が言うように、正座して「暫くぶり」と言い、そこから斬り込まなくては、龍馬の額を横から斬った傷跡の説明がつかないとも思ってはいない。桂隼之助にしても小太刀の名人であり、実際に当初から小太刀を準備していたのであれば、それ以前から母屋の天井が低い事を知っていた可能性が大である。
敷居に躓いたとしても、そうでなくとも、暗がりの中、腰を低くして奥八畳までゆっくりと進んで行ったのではあるまいか。そして、居合い抜きの剣術を見れば明らかであるが、座している龍馬に対して、片ひざを付いて横から斬り付けたともいえる。母屋間取りとして、龍馬に近づけば近づく程、天井が低くなっていくからである。
ただし、襖が� ��いていたか、閉めていたかの問題は残されている。

*今井信郎の「坂本さん暫く、云々」の話を、信じられないのは、中岡証言から龍馬と中岡へ、ほぼ同時か、中岡の方へ先に襲い掛かったとしているからと、渡辺篤の話からも、「踏み込んだ(急踏入候処)」としているからである。
今井裁判については、土佐藩の佐々木高行が仕切り、今井に対する判決が軽い所からも、なにかしら取引きがあったと考える事が出来る。であるから、当然、その中味も疑わしいのであるが、そうであれば、今井は見張りをしていただけでなく、実際に斬り込んだ可能性も出てくる。もっともそれは、あくまでも実歴談に於いて語ったものであるが、果たして裁判証言と違う事を、友人にとはいえ話してしまうとは、禁固刑を受けた人間である� �もかかわらず、甚だ疑わしくなるのである。
ただ、私は今井が実際に斬り込んだ可能性もあると思っているし、否定材料が乏しいので、今井が斬ったのであっても、別段構わない。今井の言っている話が、虚言ばかりなのではないかと考えているだけだ。今井は、虚言を言わなくてはならない立場であったという事も理解しているつもりだ。

*事件当日、容堂は京都にはいない。ちなみに、西郷もいない。別段、黒幕がいなくとも、事は足りる。配下の者に命令をしておけばよいのであるから。まさか、容堂自身が、斬り込みに行きはしまい。
西郷にしても、京にはいない訳だが(大久保利通はギリギリ入京)、はっきり言えば、薩摩にしても長州にしても、倒幕の事で手一杯な為、龍馬を構っている暇など無いのである。暇� ��のは、当日、先斗町へ遊びに行ったり、芝居を見ていた土佐藩重役ぐらいのものである。

*土佐藩黒幕説は昔からあった。それが後藤黒幕説だけを言っているのならば、話は違ってくるが、いずれにしても、私のように土佐藩自体が関わっているとした説は、かなり昔からあった筈である。別段珍しくも無い。
それにしても、容堂を黒幕とすると、かなりの点が線で結べる。
万能論と言えるが、万能論は細かい証拠には、対応出来ない場合があり、落とし穴もきっとある事だろう。

***どうも最近このページを話題にしてくれているツイッターやブログ等がありますが、それには「龍馬の方が巻き込まれた説」と紹介されている所が多いので、あえて言いますが、この説は「中岡慎太郎暗殺が主目的」或いは「二人同� �に狙われた」という主旨であります。***

注意:このページにて引用され、または取り上げて推し進めた元々の証言や、研究書による定説ともなっている証拠や当時の状況などは、不確定要素を多く含み、必ずしも事実とは言えず、追々研究が進んで行く中で、伝えた者の虚言であったり、間違った認識のもと、紹介されたものである等、証拠とならないものが多々出現してくると考えておいて下さい。あくまでも、中岡慎太郎が好きなサイト管理者による、謎解きの「お話」でありまする。
そして、誤解無きよう言って置きますが、私は中岡慎太郎は好きですが、坂本龍馬も好きであります。中岡が好きだからといって、龍馬を敵視するような気持ちはありません。



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